COMMENTARY

春山 明哲氏 早稲田大学アジア研究機構台湾研究所 客員上級研究員

[6] 「KANO」甲子園への道

嘉義農林野球部を任された近藤はつぎつぎに強化策をとった。その第一は有望な選手を野球部に集めることである。その第一が台湾原住民選手の獲得である。当時「蕃人」とも、後に「高砂族」とも呼称された原住民の運動能力、野球への適性は、一部野球関係者には「能高団」(花蓮港のアミ族野球チーム。大正14年日本に遠征)の経験などを通じて知られていたようである。これもエピソードであるが、1930(昭和5)年、台湾に遠征に来た京都・平安中学の中に3人の原住民選手がレギュラーとして参加しているのを見て、近藤は「あれを見ろ、野球こそ万民のスポーツだ、我々には大きな可能性がある」と語ったと伝えられている。近藤は監督就任以前から、アミ族が多く住んでいる台東にまで選手のスカウトに出かけたそうである。こうして、嘉義野球部の初期メンバーである上松耕一、東和一、真山卯一などが嘉義農林に入学してきた。近藤はまた、校内の他のスポーツ部からも選手を勧誘している。テニス部からは蘇正生、マラソン選手からは平野保郎、真山といった具合である。

こうして集めた有望な素材としての選手たちを、近藤が短期間に鍛えあげ、傑出したチームに育てていったことは今ではよく知られるようになった。近藤が選手に与えた注意の中には、映画を見るな、というのもある。映画は目に悪いだけでなく、闘争心を軟弱にする可能性がある、というのである。1年生から4年生までは、全員寮生活を送ることになっていた、というのも環境として見落とせないことであろう。当時の思い出については、近年選手たちの「口述歴史」(オーラル・ヒストリー)が記憶として記録されていて、生き生きとした様子の一端がわかるようになった。その中で、蘇正生が次のように語っていることが、注目される。少し長いが引用しよう。

「(天下の嘉農の成功の)功労者は近藤先生である事は言うまでもありません。近藤先生は日本中等野球の名門校、松山商業の優秀な選手で、アメリカに遠征した強者で実力は抜群でした。のち嘉義商工専修学校の会計を担当、その傍ら嘉農の要請で野球のコーチを兼ねていました。然し本職が商工学校だったので、毎日のように私達をコーチする事は出来なかったのです。依って嘉義農林野球部はある方面から言って自治制、自発的精神のもとで成長してきたと言っても良いのではないでしょうか。」 (「嘉農口述歴史」(1994年)中の蘇正生発言、西脇良朋『台湾中等学校野球史』144ページ)。この「選手の自治・自発的精神」こそKANOを成長させた大きい要素ではなかろうか。

嘉義農林は、1931(昭和6)年7月19日、第9回全島中等学校野球大会に出場した。甲子園大会出場をかけた予選である。この大会で、嘉義農林は台中一中(呉投手はノーヒット・ノーランを達成)、台中二中、台南一中と勝ち進み、決勝でも延長10回の末、台北商業を破って優勝したのであった。「8年間台北勢が独占していた優勝旗」が、初めて「濁水渓を渡る」という快挙で、「南部に誇り得る喜び」と当時の新聞は表現した。近代スポーツとしての野球は、台湾では台北がまずこれを受入れ、普及させてきたから、各野球大会でも北部が優位を占めてきた、という経緯があった。どちらかというと、北部に比べて南部は「遅れている」という意識が台湾人社会にあったといわれている。

「嘉南大圳」(かなんたいしゅう)は、烏山頭ダムと嘉義、台南の平野部の水利灌漑施設からなる大規模プロジェクトであり、台湾総督府技師の八田与一が全精魂を傾けて監督指導した大土木工事であった。この主要工事は10年余の歳月をかけて1930(昭和5)年4月に完成し、水の供給も開始されたが、映画の中で、ダムの完成と嘉義農林の全島大会優勝の時期をダブらせているのは、南部台湾人への演出でもあるだろう。

[7] KANOのナイン

ここで、嘉義農林のラインアップを紹介しておこう。先頭の数字は一番から九番までの打順である。

1番 レフト  平野保郎 (本名ポロ、原住民・アミ、3年生、24歳、漢名羅保農)
2番 センター 蘇正生  (漢人、5年生、20歳)
3番 ショート 上松耕一 (本名アジワツ、原住民・プユマ、漢名陳耕元、5年生、26歳)
4番 ピッチャー 呉明捷 (漢人・客家、主将、5年生、20歳)
5番 キャッチャー 東和一 (本名ラワイ、原住民・アミ、4年生、25歳)
6番 サード 真山卯一 (本名マヤウ、原住民・アミ、5年生、24歳)
7番 ファースト 小里初雄 (4年生、18歳)
8番 セカンド 川原信男 (3年生、17歳)
9番 ライト 福島又男 (3年生、19歳)


呉と東のバッテリー、上松・呉・東のクリーン・アップ、平野・蘇のコンビ、KANOの構成は甲子園で「台湾らしさ」と評されたのもよく理解できる。7月24日、嘉義駅に帰ってきたKANOナインと近藤監督、浜田部長は、島内校長、職員生徒一同、それに松岡市尹(市長)をはじめとする嘉義の官民など1000人を超える市民の熱狂的な歓迎を受けたという。10数台の自動車に分乗した一行は凱旋パレードののち、中央噴水池畔で解散している(映画では完成前となっている)。

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