COMMENTARY

春山 明哲氏 早稲田大学アジア研究機構台湾研究所 客員上級研究員

[8] 甲子園が観た嘉義農林の野球

KANOは、台北で送別試合をした後、基隆から高千穂丸に乗船して、神戸に向かった。第17回全国中等学校優勝野球大会の開会式は8月13日、嘉義農林の最初の対戦相手は、神奈川商工だった。「東京朝日新聞」には「呉投手のモーションなぞ、球が二つ位飛びだしそうな身振りで」、と説明した漫画が描かれている。KANOチームは、神奈川商工、札幌商業、小倉工業と対戦して勝ち進み、ついに8月21日、中京商業との決勝戦に臨んだが、好投手吉田を擁する中京商業に4対0で負け、準優勝となった。朝日新聞の記者でのちに「学生野球の父」と言われた飛田穂洲は「敗れて悔なき台湾の健児」の見出しのもとに、「突如として台湾の一角に興り、目にあまる大敵の真唯中に思うさましし奮じんの勇を示し経験ある諸チームを尻目にかけての奮闘は何人もこれを賞賛せずにはおかぬであろう」、吾等は「この健気なる嘉軍選手の前途に随喜して夕陽の甲子園に少年勇士を見送りつつある」といささか感傷的ともいえる「総評」を書いた。作家の菊池寛は「甲子園印象記」で「僕は嘉義農林が神奈川商工と戦った時から嘉義びいきになった。内地人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため協同し努力しておるという事がなんとなく涙ぐましい感じを起させる」、「実際甲子園に来て見るとファンの大部分は嘉義びいきだ」と書いている。見出しは「涙ぐましい・・・三民族の協調」である。菊池の目のつけどころはさすが作家の感性を思わせる。このころ菊池は東京朝日新聞に「勝敗」という小説を連載していた。「中等野球大会を顧みて」(三)で中尾済(朝日の記者)は「朗らかな野人 嘉義の試合ぶり」と題して、嘉義の戦い方が「現代的」ではなく、昔の一高対三高が満天下のファンをうならせたころの両チームの姿が思い出される、と書いている。「嘉義の如き型の野球がわが国学生野球のオリジンであることを感じ、いわゆる現代の野球もその根本を嘉義の如き土台の上に置いて磨きをかけたのでなければ物にならぬ」、「南溟の青龍は時を得て中央にその雄姿を現わし、よき教訓を与えてくれた」と高く評価した。

[9] 戦後日台関係の中のKANO

KANOのエースで4番バッターだった呉明捷は、その後早稲田大学に進み、神宮球場で通算7本のホームラン記録を作った。この記録は長島茂雄が登場するまで20年余り破られることはなかった。その後のKANOナインと近藤監督はどのような人生を送ったのだろうか。1977(昭和52)年、鈴木明氏の『続・誰も書かなかった台湾』(サンケイ出版)という本が出た。ノンフィクション作家の鈴木氏は、ヒラノさんという小柄なアミ族の老人に会った。KANOの往年の名選手平野さんである。そこから、鈴木氏はアミ族の野球チーム「能高団」の日本遠征を知り、KANO・OBの東さんや真山さんにインタビューしたのである。戦後日本で、KANOのその後が広く伝えられたきっかけではなかろうか。1966年5月19日、近藤兵太郎が亡くなった。享年78歳。戦後日本に引き揚げてからは、新田高校、愛媛大学の監督を務めた。21日の朝日新聞に近藤を知る森茂雄の談話が載った。1975年には、茨城県社会党の総務局長になっていた小里初雄が台湾に行き、蘇正生らと再会を果している(『週刊朝日』臨時増刊、1978年7月20日)。呉明捷は1984年、日本でその生涯を終えた(最近、そのブロンズ像が黄敏恵嘉義市長から野球殿堂博物館に贈られた)。1998年8月4日、85歳になった蘇正生らは、松山市にある近藤監督の墓参りをした、と『愛媛新聞』に報じられた。甲子園が紡ぎだす人生は、いつまでもあの青空と白球を忘れないのであろう。台湾と日本のそれぞれの人生もまた。