COMMENTARY

春山 明哲氏 早稲田大学アジア研究機構台湾研究所 客員上級研究員

[3] 嘉義農林学校ができるまで

台湾総督府が統治初期から力を入れたのが教育、とりわけ国語(日本語)の教育だった。1896(明治29)年には国語学校を開設し教員の養成を開始し、1898(明治31)年には台湾人(漢人)向けの初等教育機関として、公学校の制度が開始された。原住民に対しては1905(明治38)年に蕃人公学校が開設された(ほかに蕃童教育所も設置)。国語の普及状況を見ると、1905(明治38)年に「国語を解する本島人」はわずか1万1270人だったが、1920(大正9)年には9万9065人、昭和5(1930)年には「国語を解し、且つ読み書き得る者」は31万9233人(うち、女子6万183人)となっている。台湾人は教育に熱心であり、公学校の就学率向上と卒業生の増加によって、日本語はかなりの速度で普及していった。実業教育は1899(明治32)年、台湾人向けの農事試験場講習生制度、糖業講習所、国語学校実業部、学務部附属工業講習所が設置されたのを嚆矢とする。内地人(日本人)向けには大正期に台北に商業学校と工業学校がそれぞれ作られた。

煩雑になるので詳しくは略するが、要するに、日本人、台湾人、原住民の教育はそれぞれ個別の制度により、複線の教育が行われていたのである。

1919(大正8)年、明石元二郎総督の「同化主義」政策に基き、台湾教育令が制定されて台湾人の中等教育の拡充が図られた。このとき誕生したのが、台湾公立嘉義農林学校である。「本島人」を対象とした実業学校で、このほか、台北に工業学校が、台中に商業学校が開設された。

嘉義農林学校には農業科と林業科が置かれ、公学校6年を終了した台湾人に受験資格があり、修業年限は3年であった。1921(大正10)年には、地方制度改正の影響で、台南州立嘉義農林学校と改称されている。

[4] 「三族共学」の嘉義農林の誕生

1919(大正8)年、田健治郎が台湾総督に就任した。原敬首相の宿願である文官総督の実現であり、彼の自論である「内地延長主義」政策への転換である。1922(大正11)年、新たに台湾教育令が制定されたが、その大きな特徴は「内台共学」すなわち、内地人(日本人)と台湾人(漢人、原住民)の三民族の共学を可能とする制度の導入にあった。さらに、1926(大正15)年には修業年限が5年に延長された。ある年の記録によれば、嘉義農林の受験者数800人、合格者100人、このうちわけは日本人20%、漢人75%、原住民5%といった割合であったとのことで、この比率はほぼ一定していたらしい。いずれにしても、嘉義農林は、日本人優位とはいえ、台湾の人口比率にやや近い学生の民族構成をとっていたと言えよう。「内台共学」が政策的タテマエとは言え、おそらく嘉義農林は全島的にも珍しい学校だったと思われる。1928(昭和3)年、この嘉義農林に野球部が創設された。初代部長は浜田次箕、監督は代数担当の安藤信哉である。

[5] 近藤兵太郎

近藤兵太郎は1888(明治21)年、愛媛県松山市に生れた。1903(明治36)年県立商業学校(1906年、松山商業に改称)に入学し、野球部の選手として活躍したが、特筆すべきことは1904年から1907年、第一高等学校野球部の名ショートだった杉浦忠雄の指導を受けたことである。精神の強さとセオリーを重視する「一高式」の「武士道精神野球」は近藤の野球理論の基本となったと言われている。1907(明治40)年、松山商業を卒業した近藤は、松商野球部のコーチとしても活動し、1917(大正6)年には初代監督に就任、1919年から25年まで四国大会6連覇をなしとげ、松商を全国中等学校野球優勝大会に出場させた。この近藤の経歴で不思議なのは、1919年に台湾に渡り、嘉義商工補習(専修)学校の教諭(簿記担当)ともなっていることである。このような兼任が可能な時代だったのであろうか。1925年、校内の事情らしいが、近藤は松商監督を辞任、台湾での仕事に専念する。嘉義農林から、野球部指導の要請があったのは、1928(昭和3)年末のことだという。

嘉義農林野球部における近藤の指導は、のちに「スパルタ式」とか「精神野球」の側面が強調されることになった。実際、「球は霊(たま)なり、霊(たま)正しからば球また正し」、「心眼で打つ球を見定めてバットを振れ」といった「語録」も残っている。しかし、『近兵諸訓』という近藤がまとめた野球論の第1項目には「1. セオリー(学説、理論、主義)を身に着ける。」とあり、つぎには「2. 野球はパーセンテージ(科学の確立、可能性の追求)のスポーツである。」との言葉が掲げられている。「球は霊(たま)なり・・・」は第6項目である。このことも近藤野球を考える上で重要なことであろう。

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