CHARACTER

近藤兵太郎 こんどう ひょうたろう 1888年7月17日、松山市生まれ。
1903年に松山商業へ入学、前年の1902年の開校と共に同好会として発足した野球部に入部。当時の守備位置はレフト。その後はセカンドとショートを守り、3年生の時にキャプテンとなった。
1908年に卒業して専売局に務める傍ら、松商野球部のコーチとなり後進の指導にあたった。「松山商業高校野球史」に「監督」という名称が出てくるのは1915年だが、近藤兵太郎は実質的な初代監督である。つまり、20才にして監督に就任したのだ。

二度の廃部の危機を乗り越え、1919年に松山商業は初の四国代表となり、甲子園出場を果たした。二回戦で盛岡中に敗れたが、翌年1920年には準優勝した。しかし、1921年9月に、近藤監督は

霊正しからば球また正し 霊正しからざれば球また正しからず 近藤兵太郎

辞世の句「球を逐ひ球に追はれてたまの世を終わりて永久に霊石(たまいし)の下」
自ら選んだ戒名「球道院兵明自学居士」

※参考資料
典藏台灣棒球史-嘉農棒球(行政院體育委員會)
野球史(愛媛県立松山商業高等学校)
臺湾中等學校野球史(西脇良朋)
野球文化學會論叢「ベースボーロジー5」
 台湾野球のルーツ 能高団に始まって日本を席巻した棒球史(戸部良也)
嘉義農林野球部OB一行 海を越え近藤兵太郎監督の眠る松山市の墓前に集う(上田淳)