COMMENTARY

春山 明哲氏 早稲田大学アジア研究機構台湾研究所 客員上級研究員

1931(昭和6)年の8月、日本統治下の台湾から嘉義農林の野球チーム「KANO」が甲子園に行った。KANOは、日本人、台湾人(漢人)、台湾原住民の「三民族」の混成チームだった。なぜ、このようなことが可能だったのか。その歴史的意味とはなんだろうか。台湾史を少し紐解いてこのことを考えてみたい。

[1] 台湾の歴史と民族

台湾には、旧石器・新石器時代を経て、今から約5000年前にオーストロネシア語族(マレー・ポリネシア系)の民族が住み始めたと考えられている。これが台湾の先住民であるが、日本統治時代の人類学調査で9つに分類され(アミ、タイヤル、パイワン、ブヌン、ルカイ、プユマ、サイシャット、ツォウ、ヤミ)、現在では台湾原住民(族)と憲法で規定され、その数も16となっている。
明朝・清朝の時代から、中国大陸から漢民族の移住が断続的に始まった。17世紀にはオランダが一時台湾を支配し、ついで明の遺臣・鄭成功が台湾に拠ったが、1684年清朝は福建省台湾府を置いた。漢人の移住は福建省南部の泉州・漳州からの「閩南(びんなん)」人の移住が先行し、ついで広東から「客家(はっか)」が渡ってきた。漢人は台湾原住民と争いつつ、その生存圏を拡大し、原住民は主として山地に居住することになった。清朝は統治に服する原住民を熟番、外にある者を生番と分類した。のち、日本もこれを踏襲し蕃人と呼称した。

[2] 日本統治下の台湾

1895年、日清戦争の結果、下関講和条約で台湾・澎湖諸島が日本に割譲されると、これに反対する台湾の官民は「台湾民主国」の樹立を宣言し、義勇軍を組織して抵抗した。日本政府は近衛師団等を戦闘に投じて一旦は平定を宣言したが、抗日武装ゲリラの抵抗は全島に飛び火し、樺山資紀・桂太郎・乃木希典の三代総督の時期は戦乱に明け暮れた。1902年児玉源太郎総督によってゲリラが鎮定された後も、抗日蜂起計画が続発し、漢人による武装闘争が終結したのは、実に1915(大正4)年のことだった。

一方、山地の支配は佐久間総督の「理蕃事業」として本格化した。軍と警察を動員して山地を封鎖し、討伐を繰り返しつつ、銃器弾薬を押収していった。1920年のサラマオ蜂起の鎮圧をもって山地は平穏となったかと見えたが、1930年、霧社事件が勃発した。理蕃の模範地区と言われた霧社でタイヤル(セデック)が蜂起し、日本人134人が殺されるという事態に当局は大量の軍隊・警察を動員し、2ヶ月かかってようやく鎮圧した。KANOが甲子園に行く前の年のことである。(映画『セデック・バレ』)

このように見てくると日本の台湾統治は武断的に終始したような印象があるが、無論統治はそれにつきるものではない。特に児玉総督・後藤新平民政長官の時期には、台湾のインフラ整備(土地調査、鉄道敷設、港湾建設)、製糖業の振興、専売事業の確立、医療・衛生・都市政策の開始など、いわゆる「文明的植民政策」(後藤)、「資本主義の基礎工事」(矢内原忠雄)が展開されていき、台湾社会は近代に向けて大きく変貌していったのである。

人口面でこれを見ると、日本の領台当初、総人口は約300万人と推定され、そのうち、漢人(漢族系住民)が9割強を占め、原住民は10数万人とされている。漢人の多数は「閩南人」で約8割、「客家」は1割強とされている。

昭和9年末現在の統計では、総人口は約519万人、そのうち閩南(福建)系が394万(84%)、客家(広東)系が73万人(19%)、原住民(高砂族)が15万人(3%)、日本人(内地人)が約26万人(5%)となっている((  )は当時の統計用語)。

■参考■2014年6月19日
野球殿堂博物館に寄贈された呉明捷選手の銅像
写真提供:Yoko Eguchi

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