CHARACTER

嘉義農林野球部 KANO 嘉義農林野球部は1928年4月に結成され、結成当時は校内の代数教師安藤信哉が指導。しかし成績が振るわず、山本繁雄、濱田次箕と監督を交代した。
1929年、日本の松山商業高校出身で同校のコーチを務めた近藤兵太郎を迎え、スパルタ式練習を開始、毎日放課後3時頃に練習を始め、ランニング・ピッチング・バッティングの練習。守備ではボールの落下地点を見極める練習を行った。バッターは異なる球筋に対応することを学び、チームはみるみる進歩していった。

近藤は各部員の出身から身体能力の特徴と実力を重視、日本人、台湾人(漢人)、台湾原住民が混在する「三族共和」がこのチーム最大の特色だった。
1931年、台湾の予選大会で過去8年間その優勝を北部の学校に独占され「優勝旗は濁水渓(台湾中部を流れる河川)を渡らない」と言われてきた伝統を覆して全島優勝を果たし、台湾代表として甲子園大会に進出。決勝戦まで登り詰め、その不屈の精神と奮闘ぶりは観客を魅了し、「天下の嘉農」と讃えられた。
「天下の嘉農」という言葉は、嘉義農林学校の後身である嘉義大学のキャンパスにある球状モニュメントに大きく書かれている。

作家の菊池寛は8月22日の大阪朝日新聞の観戦記の中でこう書いている。
「僕は、嘉義農林が、神奈川商工と戦ったときから、嘉義びいきになった。日本人、本島人(台湾の漢族)、高砂族(先住民族)という変わった人種が、同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる。実際甲子園に来て見ると、ファンの大部分は嘉義びいきだ」
本作では、小市慢太郎分する記者「小池」に、スタンドで立ち上がってこれを台詞で言わせている。

甲子園のフェンスにアジア人として初の打球を当てた強打者蘇正生(そ・しょうせい)は、後に言う。「もし近藤監督がいなかったら、嘉農はなかった。もし嘉農がなかったら、台湾野球はなかった」

嘉義農林野球部は、吳明捷(ご・めいしょう)/漢民族、真山卯一(日本名)=拓弘山(トゥ・ホンシャン)/台湾原住民、上松耕一(日本名)=陳耕元(チェン・カンユエン)/台湾原住民、蘇正生(そ・しょうせい)/漢民族、吳昌征(ご・しょうせい)/漢民族、平野保郎(日本名)=羅保農(ルォ・バオノン)/台湾原住民、東公文(日本名)=藍德明(ラン・ダーミン)/台湾原住民、萩原寬(日本名)=吳新亨(ウー・シンティン)/台湾原住民、ら多くの優れた選手を輩出した。
本作の主要人物であるエースピッチャー吳明捷(ご・めいしょう)は、卒業後早稲田大学野球部に進み活躍、六大学野球の通算ホームラン記録を樹立した。
また、劇中の吳波(ご・は)こと吳昌征(ご・しょうせい)は後に日本のプロ野球史で最初の台湾出身選手となり、巨人・阪神という人気チームで主力選手として活躍、人間機関車と呼ばれる大選手になって1995年に野球殿堂入りした。